仮説:行為が趣味/娯楽足るかは社会がゆるすかどうかである

タイトルの通りです。趣味/娯楽って、何に感情の増幅をゆるすかでしかないから原理的には能動的な行為であれば何でもいいんだけど、そこには社会的に受け入れられるか/個人が理解可能かという判定でYesを返さないといけない。

 

たとえばスポーツ観戦とかいうそれ自体は何も面白くないものは受け入れられるが、数学好きは迫害されがちというのもこれが原因だろう。ドアを開けるという行為が好きだという人が居たとして、それを趣味だと言ったらまぁ小学校以下ならいじめられるだろうし、中学生以上なら割と無視されていそう。

 

つまりまぁ、理解できないものよりも、多少有害であっても理解できるもののほうが受け入れられやすいという事実の亜種っぽい?と思っている。

 

あと、個人の感情を操作?しやすい奴もありますよな、ようつべshortとかTwitterの炎上ネタとか。そういうのは趣味だと自覚できることは稀で、あんまり自己紹介の趣味の欄に書けることではない。

 

先に述べたとおり、趣味って何に感情の増幅をゆるすかどうかだから趣味を訊くことはなんの意味もない(もしあなたが感情をある程度自分の力でなんとかできるならば)。

 

ともかく、(行為なら何でもいいが特に!)趣味/娯楽と呼ばれる行為をしているときは常に、それに感情を委ねていいかどうかを判定しなければならない。今、君が持っている200gほどの直方体の表面をなぞっているその指が惰性で動いていないかを都度チェックする必要があるように!僕らは感情を自分自身のものへ取り返さねばならない。え?自由意志を信じていない?あなたは本当にそう思っているんですか?Twitterのインスタントなニヒリズムを内面化しているだけじゃないですか?本当は自由意志を信じているのではないですか?自分を大切にしてください。   おわり